雇われない女性たちの生き方(起業という働き方)

2017年2月23日木曜日

Iさん、グラフィックデザイナーインタビュー(雇用されない女性たちの生き方.35)

8人目のインタビュー




(8)  Iさん(グラフィックデザイナー・38歳・既婚・子供一人・独立3)

 山口県で生まれ大学は京都だったが、デザイン関係の学部ではなかった。3年生の時の1998PCソフトのグラフィックデザインを習い始める。

親が今の地に引っ越し就職氷河期だったので、実家暮らしをするため、自分も越した。印刷会社に入社し営業となったが、人見知りの自分には苦手な仕事だった。

 その3年後くらい会社の業積不振でリストラをされた。仕事は早ければ20時遅いときは25時が当たり前の職場で「リセット期間だ」と思うことにした。その後派遣で図面付きの取り扱い説明書をPCで使いこなす人として重宝された。
 
2005年、前職に努めていた今の主人と結婚。その後子供を出産した。


 そのまま派遣の仕事を続けるつもりでいたが、保育園は4月スタートで、子供は7月生まれであり、入園するとなると、9ヶ月のまだ歩けない赤ちゃんを、預けることが寂しくなってきた。


例えば、夜迎えに行った時に保育園の先生に、
「今日歩きましたよ」
「スプーンで上手にたべられました」
などと自分の子供の成長を人から聞くのか、と思うともったいないという気がしてきた。

保育園は3次まで申し込みが出きるシステムなのだが、1次の一保育園だけを10月に願書をだした。そんな思いでいたためか案の定、保育園入園に落ちた。そこで、派遣会社に辞めることを告げ、4月から子育て支援の団体に通うようになった。

それが今の仕事の始まりとなった。その団体の情報誌のイラストを書いて欲しいと頼まれ、以後ママ関係の団体のイベントチラシなどを依頼されるようになっていった。

 子供が1歳半になったころ子供だけとの生活は辛い、と思い始めた。ちょうど子供もわがままを言う時期になって行く時であった。もう少し仕事も増やしたいから、翌年保育園に預けた。1年目の売上は微々たるもの。そして3年目の収入は、週4日パートに行くくらいの収入を得られるようになった。



 今の顧客は同じように起業したい女性たちで、差別化ができている。少しずつお客様も広がり始めた。自己実現も出来ている。子育てを通して市民団体などの地域を繋がり、始めて市民になった気がした。そこで社会的欲求も満たされ、仕事も自分に口コミで依頼されるので承認欲求も得られた。

 自由なのは間違いない。時間管理ができ、仕事も選べている。とはいえ仕事は重い責任はある。ただ、ライフワークバランスは微妙だ。会社員の頃は仕事と私生活は別でいれたが、私生活に仕事が食い込んでくる。土日も仕事しているので、主人が家事と育児もしてくれる。主人の協力がないとできない。



 個人事業主である自分は1人で全てをこなしているが、MAXにきている。
協力者を求めたい。もし、主人が仕事をできなくなったら、自分で更に拡大し稼ごうとは思わない。

多分会社員に戻るだろう。
やはり安定しているし、自分のスキルがあるのでいつでも仕事はあると思う。


2017年2月7日火曜日

Hさん塾経営インタビュー(雇用されない女性たちの生き方.34)



7人目インタビュー

(7)  Hさん(塾経営・61歳・既婚・子供1人・独立30)

 高校を卒業後、イギリスへ2年間留学。
その後、結婚し、あるとき英語が出来るのならば教えればと言われ、始めたのがきっかけだ。

自宅で少人数で続けていたころ小学館教室で塾を始めることになる。
資料やノウハウは会社から得ることが出来たが収入は時間給でみなされていたので、低いものであった。
 しかし彼女はこのことを気にしていないので、収益を求めしているのではないことが分かる。その後、夫の転勤で地方に住むことにもなるが、その地、その地で自宅で塾は続けていく。
 
その地方で中学生を教えたときに、学校から近かったこともあり、宿題を中心に見てあげていたことがあった。すると、その子供たちの能力が上がっていくのが分かり、以後、そのやり方をやり続けた。


 26歳で結婚し30歳になったころ不妊治療を始め、32歳で子供が生まれた。
子供が生まれ自宅で生徒を相手に続けたが、子育てとの両立は大変だった。
数か月仕事を続けたが、子供が髄膜炎になり仕事は全部辞めることとした。
このころは小学館の塾と自分で教えるマンツーマン指導の両軸で運営していた。



 その後、都内校外に家を立て、実家の母に手伝いにきてもらい塾を再会。
その頃は自宅では無く。レンタル教室を借りるようになる。中学生も口コミで来るようになり出した矢先、主人の認知症の母を向かい入れることとなり、介護と仕事で大変な時期も過ごした。



 介護が一段落したころ、レンタル教室が定期的に借りられなくなり、駅の近くで教室用に事務所を賃貸したのが10年ほど前である。その頃から塾の形態が変わりだした。グループワークだと数人休むと翌週も復習をせざる得なくなり、効率が悪くなっていった。そのため、小学館教室は辞め、学生を講師として個別指導だけにするようになって行った。



 専属教室を持ったことで、学生バイトを雇い、入塾する層が変化してきた。近くのT学園の進学生が主になり自然に公立生徒がいなくなっていった。23年経つと近くにNOVAが出来た。生徒を取られると不安だったが、誰も辞めなかった。なぜだろう?と考えた答えは差別化をしていたのだと分かった。T学園の為の独自の教育方法のプログラムを作っていたのであった。



 ある時、講師をしたいと東大出身の主婦Bさんが面談に来た。「働くところがない」と言う。今は誰でも出来る単純作業をしているらしい。がむしゃらに何でもやる自分と、言われたことをきちんとする主婦Bさんと違うのだと、驚いたことを覚えている。
正確に仕事はする主婦Bさんにやりがいを持ってもらうよう人材育成をしてもらいたいと思ったが、うまく行かず、簡単な経理をしてもらおうかと考え悩んでいた。


 いつも変化のある時、選択を迫られる時には相談できる師であるA氏がいた。この師のおかげでいつも危機や悩みを乗り越えることが出来た。A氏とは、とあるセミナーで同期という出会いであった。世に名前が通った上場企業の社長さんだ。
 レンタル教室が常時借りることが困難になった時には「何かがあった(困った)時は、決断をするチャンスだ。」とアドバイスをもらい、事務所を借りる決断をした。今回も主婦Bさんの扱いを相談したら「人事とお金は預けてはいけない」と言われ、低学年の指導全般だけをお願いした。



 このことを機に「女性でもったいない人」つまり能力はあるが、うまく活かされていない人を育てて行きたいと考えている。


 ライフワークバランは子供が高校生までは家庭(子育て)に比重が行っていたかな。今は主人がいるからそっちに気を使うから自分80%の主人20%かな。

5段階の欲求では承認あたりかな。今年は売上も去年より30UPしたけど、主人がいるから生活ができているのは、かわない。

私はこれからどこへ行くのかな。老いた今でも思う。と笑って言ってくれた。

2017年1月26日木曜日

Gさん、ベビーマッサージ&食育インタビュー(雇用されない女性たちの生き方.33)

6人目のインタビュー


(6)  Gさん(ベビーマッサージ&食育・38歳・既婚・子供2人・独立3年)

 大学卒業後、大手アパレル企業の雑貨の企画部門に就職。転勤のため名古屋、
その後東京へ移る。 
2年間勤め、次の2年間は銀座のエステサロンに就職。

施術や身体のことなどここで学んだことは大きい。27歳になり9年間の遠距離の末、悩み続けたが、決断し実家と主人のある地元へ結婚のため帰る。

地元のホテルのエステで働いたが、出産のため離職。専業主婦となるが子供が9ヶ月のころからベビーマッサージを会得し始め、2人目が生まれた今でも学びと仕事と子育ての継続中。

 
1年ほど前から子供と一緒に仕事ができるママ向けのマッサージと食育の講座を絡めながら主催&講師業を始めた。
また、大学教授との研究で赤ちゃんがマッサージを施術した前後で、リラクゼーションを味わったか。という調査を現在進行中である。
施術の前と後とで舌の分泌の違いを計測することで、癒し効果があったかを検証する。彼女の講座に来る赤ちゃんにと母親にアンケートを取ること仕事で研究のサポートをしている。



ベビーマッサージの講座は自ら主催し、レストランと連携して少し収益もでる。
また、口コミで交流学習センターや保育園で声がかかり講座をする場合もある。ベビーマッージの際に使用するマッサージオイルは師匠である先生のオリジナルであり、講座で販売できる。物販手数料も入り、継続して購入する顧客もいる。


 現在、2人の子供とご主人の両親との生活で、家事も手を抜くわけにもいかないが、上手に時間を使い、自分の仕事と家事、子育てをこなす日常はフル回転で、スケジュール帳はびっしりである。


「自由ですか」の質問に、「Yes。スケジュールを自分で決められるのがいい。
そして「子供を学童保育に入れる必要が無いのがいい」と答えた。

学童保育に入れれば、もっと仕事ができる時間を増やせるのだが、家で迎えてあげたいからだという。自己実現の段階は、自己承認がやっとできたばかり。子供を育て上げないと、利益の出る仕事にシフトできない。月に30万円は稼げ、夫に頼らないくらいになれたら実現できたと思うのかもしれない。



 ワークライフバランスは、「掃除がしっかりできてないからな」と言いながらも「でもできていると思う。子供も自分のことは自分でするし、スキンシップは大事にしている。手作りで味噌も作るし、食事はしっかり作る。」

「欲を言えばもう少しゆとりが欲しいかも。」


 忙しい毎日をこなす彼女のこれからは、企業や病院で仕事をすることと、パパマッサージも広げていきたい。

2017年1月20日金曜日

Fさん,グラフィックデザイナーのインタビュー(雇用されない女性たちの生き方.32)

5人目のインタビュー。



(5)  Fさん(グラフィックデザイナー・40歳・未婚・独立17年目)

 デザイナーになるのが高校の時からの夢で、3者面談の時に「30歳で独立します。」
と言って京都の美大への親の許可をなんとか得て入学した。

 大学4年の時は就職氷河期で京都では仕事がなく、一人暮らしを継続することが出来ないので、地元に戻り印刷会社に入社した。

 その後、1年半で会社は辞めた。
デザイナーの仕事は夜遅くまでするのが当たり前だった。
 しかし、この労働時間と対価は合っていないと強く思い、ならば自分でした方がいい、と23歳で独立した。

当時若いこともあり、辞めた会社から仕事をもらうことも知らず、最初はショップカードを作りお店に営業したこともあったが、受注があるわけではなかった。

 そこで前会社の営業からの紹介で仕事をもらい始めたら、そこから横の繋がりができて広告代理店や印刷会社の下請けの仕事が入ってくるようになった。不思議と仕事が止まりそうになると、入ってくるようになって行った。



 最初は言われた通りのことだけをこなしていたが、リーマンショックで仕事が減り倒産する会社も出てきた。

 差別化しないといけないと自分に何ができるかを考えた。

丁度独立して10年経った頃だった。

紙媒体のオリコミチラシの仕事が多かったので、どうしたら集客できるか考えるディレクションするデザイナーになろうと決めた。

 ある時チラシの中にB4サイズで縦長のオリコミギリギリの物を入れた。そのイベント200名募集のところ2,000名が来ることとなった。

 ここから仕事のやり方を変えた。
 今までのものに新しい試みを付け加え、キャッチコピーまで考えるようになった。それはただの「デザイン性のあるおしゃれ」だけのものに「訴求効果」のある媒体へ変化していった。常に「消費者目線で捉えるようになった。



 今の悩みはPCが普及しすぎたことで2点困ったことが起きている。

 1つ目は、ネットでデザインを安く売る個人や業者が増え、デザインというモノが専門性をもたなくなり料金が下がってきた。

 2つ目は納期が厳しくなった(短くなった)いつでもネットが繋がり連絡が取れる状態なので、以前は時間がかかっていたことが(画像の添付書類化など)「今日の何時」と言うように変わってきた。

 
朝はゆっくり始め、夜遅くまで仕事する習慣は変わらないで時間は自由だ。そして仕事も選べる自由もある。やりたくない仕事は他を紹介することにしている。嫌な相手と仕事をしてストレスがたまることは避けたい。とにかく人間関係のわずらわしさが無い。



 以前は仕事が無いと不安に襲われ、就職情報誌を読むこともあった。ある時、就職面談しようとした時、神様がいるのか、仕事が入り忙しくなってきた。「今は無きゃ無いで辞める時だ。」そう素直に思えるようになった(あては全くないのだが)そう思うと気が楽になる。


 「自己実現はできているのかな。あまり考えたことが無い。」
 今後は今の仕事以外に、今までの蓄積された情報をまとめることを次の仕事をしてみようかと考えている。